−−−ダレカ……





 学校からの帰り道、その穴を見つけたのは偶然だった。近所付き合いが悪いらしい家―――僕は、
どんな人が何人住んでるかも知らない家を囲む2メートル近くはある生け垣が、一部壊れてるのを見
つけた。中学生になっても、クラスの平均を大きく下回る小柄な僕だから見つけられたようなわかり
にくい場所に、通り抜けられそうな小さな破損。好奇心は人より大きいことを自覚してる僕が、そこ
を入らずにいられるわけがない。
 近所付き合いのない家は、あることないこと噂になる。誰も真実を確かめられないまま、噂だけが
一人歩き。家が“屋敷”と呼んでも差し仕えがないほど大きいことも噂を煽ってると思う。周りの他
の家に比べたら、敷地が3つか4つ分ある。家主が金持ちなことだけは確かだ。
 あとは全部噂……どこぞの大会社の元社長が隠居生活を送ってるが、屋敷内の壁や家具はすべて、
その元社長の趣味で金箔を貼ってるとか……芸能人の誰それが愛人を囲ってて、時々“シュチニクリ
ン”のパーティが行われてる―――“シュチニクリン”が何かは知らないけど―――とか……その昔、
貴族だか華族だかだった人たちが過去の栄光を忘れられないまま、権力を取り戻す為に作ったテロ集
団のアジトだとか。親が子供を殺したとか、その逆とか、強盗殺人があったとか……犯罪に関わる事
件や幽霊・妖怪出没の噂も多い。
 だけど、夜になると家の窓に灯りが見えることがあるし、朝練で朝早く屋敷の前を通ったら新聞配
達のお兄さんが朝刊をポストに入れてるのも見た。結局は、普通の人が―――人嫌いか、単に仕事が
忙しいとかで帰りが遅いだけの人が―――普通に暮らしてるってだけのオチかもしれないんだ。
 それらの謎も、この隙間から中に入れば解けるかもしれない―――考えただけで、胸が踊る。
 きっと今日はラッキーなんだ。いつもの帰り道沿いから見上げるだけじゃなく、偶々見つけた猫を
追いかけてぐるっと屋敷の周りを巡ったら、屋敷への入口を見つけられたんだから。この幸運に、誰
にともなくお礼を言って、僕は早速生け垣をくぐって謎に満ちた屋敷への侵入を試みたのだった。



 荒れた庭だった。どう見ても手入れは数年はされてないんじゃないだろうか。まだ日が高いからい
いけど、暗くなってからは肝だめしの隠れスポットになりそうだ。雑草は伸び放題……しかも、夏も
まだこれからだってのに既に枯れかけてる。屋敷の外壁―――元は白かったんだろうけど、薄汚れて
灰色がかってる―――には蔦が這い、人気がまるでない。こんな家に住むなんて、僕には到底できそ
うにない。
 だけど、昼間の内に探検するなら話は別。僕は息を殺して、足音を忍ばせて、ゆっくりと庭を歩い
た。屋敷を見上げても、どの窓も雨戸がしっかり閉められてるから、留守かな。たとえ中に人がいて
も見つかる心配はなさそうだ。
 どんなに足音を忍ばせようとしてもガサガサと鳴ってしまう雑草は気になったけど、大丈夫大丈夫、
と心の中で呟きながら屋敷の壁に身を寄せる。中に入れたら最高だけど、たとえドアが開いてても自
分に入っていけるだけの勇気があるかは……正直、自信がない。友達と一緒だったら、意地でも平気
な顔をしてみせるけど、今は一人だから……そうだ、もし中に入れそうだったら誰かを呼んでくれば
いい。すぐにこの近くに住んでる友達の顔をいくつか思い浮かべた。この屋敷の謎解きを披露する時
も、証人がいる方がいいに決まってる。
 何かをやり遂げて、それを自慢したい時は“確かにやり遂げた”ってことを誰かに見てもらうべき
だ、って先生が言ってたし。どんなに信じがたいことでも、証人がいれば信じてもらえるんだって。
 だから、今日のところは様子見ってやつだ。行けるとこまで、屋敷の周りをぐるっと回って……う
ん、大発見は次の時でもいいんだ。今は今、出来ることをやる。
 壁に沿って、歩く。そ〜っとそ〜っと……何か落ちてないか、閉められた雨戸に隙間はないか……
キョロキョロと目を動かしながら、歩いていく。大発見は次でもいいけど、友達を誘うのに小発見く
らいはあれば……と期待する。



 それを見つけたのは、ひとつ目の角を曲がってすぐの窓の手前だった。他と同様に雨戸の閉まった
窓に向かって左側……窓に沿うように壁にヒビ。壁は全体的に薄汚れてはいたが、ヒビを見つけたの
は初めてだった。
 ドキドキしながらヒビを指でなぞる。もしかしたら、ここから小さくでも穴が開いてて、中を覗け
るかもしれない! 自分の思いつきに興奮して指先が震える。
 角を曲がって日の向きがちょうど反対側になってしまった。陰になって、どうしても薄汚れた壁は
見にくくなる。それでも目を凝らして、ヒビを見た。
「あっ……」
 思わず漏れた声に、慌てて口を押さえた。呼吸まで止めて、耳を澄ます……が、庭からも屋敷の中
からも物音は聞こえなかった。静寂は静寂のまま。ホッとして口を押さえていた手を外し、今度は暴
れてる心臓を押さえる。大丈夫大丈夫。
 期待は叶った。
 極々小さいが、ヒビの隙間に穴がある。わずかに灯りが見えた気がした。
 今のが錯覚かは確かめればわかる。高鳴る胸を押さえて、僕はそっと小さな穴に右目を近づけた。
 ……あっ!
 今度は失敗しなかった。心の中でだけ叫んで、もっとよく見ようと壁に額をくっつける。見える範
囲は変わらないのはわかってるけれど、そうせずにはいられなかった。
 中は、物置のような部屋だった。広さはわからないけど、薄ぼんやりとした灯りが室内に積まれた
箱を照らしている。ダンボール……いや、木箱かな。壁際に寄せられて、見えるのは7つ。
 他に何か見えないかな?
 夢中で、覗く角度を変えようと顔を傾けたり、穴から目を離してみたり……だけど、どうにも穴が
小さすぎる。残念だけど、穴を広げるわけにもいかないし……気を抜けば、唸りそうになる気持ちを
抑えて、それでも、じっとその穴に視線を注ぐ。
 あぁ〜っ、じれったい!
 あんな木箱だけ見てても面白くもなんともないのに……他にもこんな穴が―――出来れば、あと少
しでも大きいと尚良い―――あるだろうか?
 ……っ!
 壁から離しかけた額をもう一度押しつける。
 ……人が入って来た。
 大人だ。女の人……男の人も入ってきた。二人だけ。ちょうどこの穴から見える範囲で立ち止まる
と、女の人は男の人に向き直って……わっ! いきなりひっぱたいた。
 すごい。
 二人の向かい合う横顔が、どちらも怒ってるのはわかる。空気が張り詰めるって、こういうことを
言うのかもしれない。
 目が離せなかった。大人の世界を覗き見るのは、すごく興奮することだ。大人はいつだって子供を
仲間外れにするけど、今はあの二人は僕が見てることを知らないんだ。
 あの二人が、どうして喧嘩してるのかはわからないけど、仲直りには程遠いように見える。女の人
がもう一度ひっぱたくか、男の人が叩き返すのか。取っ組み合いの喧嘩でも始めたら面白いんだけど
な。無理かな。
 でも、わざわざ人がいない場所を選んでるんだから、見られたら困るようなことかもしれない。大
人が子供みたいな喧嘩をすることだって、子供に隠してるだけで、あるかもしれないじゃないか。
 僕がいろんな想像を膨らませる中、不意に女の人が笑ったように見えた―――人を馬鹿にするみた
いな、唇の端だけを持ち上げる笑い方。男の人はそれを見て、さらに顔を歪ませた……薄灯りじゃわ
からないけど、その顔はきっと怒りで赤くなってるに違いない。
 女の人はどうしてさらに怒らせるようなことを……?
 話し声はまったく聞こえないので、二人が険悪な理由はわからない。二人の関係もわからない。年
はいくつくらいだろう……大人の年齢はわからないけど、女の人は今年二十歳だって言ってた従姉と
同じくらいに見える。男の人はもう少し上、かな?
 ……あれ?
 おかしなことに気付いた。けれど、その意味を考えるより先に、男の人の手元で何かが光った。
 ……あ、ナイフ!
 頭の中で叫んだのと同時―――まるで、僕の言葉に押されたかのように、男の人はナイフを両手で
握って、女の人に体当りした。映画みたいに、すべてがスローモーションに見えた。ぶつかった瞬間、
女の人は目と口を大きく開き、男の人は一度体を奮わせてから、ゆっくりと離れて行った―――その
手にナイフはない。ただ少しだけ黒っぽいモノが手についてる。ナイフは……当然だけど、女の人の
おなかに刺さっていた。茫然とした顔で、ゆっくり視線を降ろしてナイフを見る。おなかはやっぱり
黒く染まって、見る見る内に足元の床も同じ色が広がっていく。どんどんどんどん……それだけは早
送りみたいなスピードで。
 男の人は足を震わせて立っていられないらしく、壁際に積まれた木箱にすがっている。その口がパ
クパクと動いたけど、やっぱり声は聞こえない。
 やがて、女の人は―――きっと、最後の力を振り絞って―――顔を上げて男の人をにらみつけたけ
ど、そのまま床に広がった黒いモノに飛び込むように倒れ込んだ。男の人は顔を引きつらせて後ずさ
ったけど、女の人はそれ以上動くことは出来なかった。
 ……た、大変だ。事件だ。殺人じゃないか!
 黒いモノは血だ。考えるまでもない。今から救急車を呼んだとしても、あれだけの血を流して、女
の人が助かるとも思えない。既に死んじゃってるかもしれないんだ。
 まるで、映画みたいな光景―――でも、ここは映画館じゃない。それとも、あれがテレビ? まさ
か! 音は聞こえないけど、鼻先につくこの臭いは……っ!
 見てた。
 弾かれたみたいに、僕は壁から離れて一目散に駆け出した。
 見てた……見られた!
 庭を駆け抜け、生け垣の穴をくぐって、家までの道を全力疾走―――心臓が止まりそうだった。苦
しくて苦しくて……でも、後ろを振り返る余裕もなく、ひたすら走った。家のドアに飛びついて、力
任せにドアを開けて閉めた。お母さんの怒った声が聞こえたけど、僕はそのまま階段を駆け上がって、
自分の部屋に飛び込んだ。
「あ、あぁ……」
 勢いのままにベッドに飛び込んで、弾む呼吸の合間に無意味な声が漏れる。自分が見たものを頭の
中で再生して、枕に立てた爪に力を込める。
 物置みたいな木箱だけが置いてある部屋に、女の人と男の人が入ってきた。先に動いたのは女の人。
男の人を引っ叩いて……二人はすごく険悪な雰囲気だった。そしたら今度は、男の人がどこからかナ
イフを取り出して、女の人を刺したんだ。流れ出た血が床にどんどん広がって……女の人は倒れて、
そのまま動かなくなった。
 思い出してる内に体が震えてきた。
 僕は大変な場面を目撃しちゃったんだ。……あ、警察! 通報するべきだろうか。でも、勝手に入
り込んだ家で殺人を目撃しましたって? ……信じてもらえるかな。怒られて終わり、ってことも有
り得るんじゃ……何より、見られたんだ。
 いや、見えるわけがない。
 でも……あの時確かに男の人がこっち―――僕が覗いてた穴のある壁を見た。目が合ったんだ。家
の中から、あの穴がどう見えるかわからないけど……絶対に気付かれてないって言えるだろうか?
 警察がもし僕の話を信じたら、当然「家の中を調べさせてください」って捜査に行く。その時、死
体は隠してあるか始末した後かもしれない。警察が見つけられなかったら、僕の話が警察は嘘だった
と思うだろう。でも、もし男の人が僕が覗いてたことに、さっきので気付いてたとしたら……危険だ。
 どうしよう。僕はどうしたらいいんだろう?



 結局、警察には行かなかった―――行けなかった。
 夜はグルグルと考えて眠れず、寝ついたのは随分遅かった……翌日が土曜で良かった。お昼近くに
なって、ようやく起きて階下に降りていくと、お母さんの小言をBGMに朝食兼昼食。
「休みだからって、遅くまで寝てて良いものでもないのよ。毎日同じ時間に起床就寝。健康に元気に
過ごす秘訣よ」
「耳タコ」
「まったく。今朝は特にサイレンの音で騒がしかったのに……どうせ、気付いてなかったんでしょ」
「サイレン? 何かあったの?」
 食事の手を止めて顔を上げると、お母さんは呆れたようにぼやく。
「ホントに、その好奇心は誰に似たんだろうねぇ?」
 ……絶対、お母さんだよ。
 心の中でだけ呟いて、「パトカー? 救急車? それとも、消防車?」と訊いてみる。
「子供に聞かせる話じゃないんだけどねぇ」
「でも話したいんでしょ」
 呆れた声を返すと、お母さんは笑って誤魔化した。
 予想どおり、お母さんは朝から近所のおばさんたちに混じって情報収集してたらしい。ホントはそ
の成果を話したくてしょうがないんだ。いつものことだけど。
「救急車とパトカーだったよ。ほら、一丁目に古いお屋敷があるでしょ」
 食事を再開しようと、口元に運んだパンを食べ損なう。
 一丁目にある古いお屋敷―――あそこだ。昨日、僕が目撃した殺人のあった場所!
 あの殺人が発覚したのかな? ……ドキドキしながら話の続きを聞く。けれど、お母さんは意外な
言葉を口にした。
「あそこね、おじいさんが一人で住んでらしたんだけど、そのおじいさんが今朝亡くなったんですっ
て」
「……おじいさん? だけ?」
「そうよ」
「え、でも、……え〜と、一人で住んでたのに誰が死んでるって気づいたの?」
 “老人の孤独死”ってのは、ニュースでやってたのを見たことがある。
 でも、あの家には女の人と男の人もいたんだ。もしかしたら、お屋敷に住んでたおじいさんと何か
……女の人を殺したことがバレて口止めに、とか。
 思いついたことにゾッとする。
「なんでも悲鳴が聞こえたんですって、あのお屋敷の隣りの家まで」
「悲鳴?」
「そう。でもほら、あの大きさでしょ。聞こえたって言っても微かにでね。通報の決め手になったの
は、次に響いた銃声らしいの!」
「……じゅ、銃声?」
「物騒よね。あのおじいさん、戦争中に手に入れた拳銃をずっと持ってたらしいのよ。それで……」
「まさか……自殺?」
 恐る恐る聞くと、お母さんは大きく頷いた。
 ……でも、そうなるとどういうことだろう?
 女の人の死体は? 男の人はどこへ行ったんだろう? ……あ、男の人が拳銃で?
 あれこれ考えてみたけど、お母さんの話では、警察が自殺って判断したらしい。拳銃を撃ったら、
その人の手から“硝煙反応”って言うのが出るから、誰が撃ったかはわかるんだとか。
 警察が来た時、一応屋敷の中は全部調べられた……となると、男の人は逃げたんだろうか? 女の
人の死体を担いでってわけにはいかないだろうから、隠して? それか、車で運び出した可能性もあ
るのか……う〜ん。
 考えても、もちろんわかるわけがない。
 けれど、頭の中では勝手に今聞いた言葉が回ってて……僕はお母さんに注意されるまで、頭の中以
外は固まらせていた。



 結局―――わからないことは、自分で確かめる。
 怖いけど、このままじゃ延々悩まされて、他に何も手につかなくなる。
 三時頃……僕は、昨日と同じ場所―――生垣に空いた穴の前に立って、大きく深呼吸した。さっき
表玄関の方をチラっと見てきたら、ロープが張られていた。見張りのお巡りさんはいなかったけど、
さすがに正面からは入れない。昨日と同じように、生垣の穴を潜って侵入した。
 庭は昨日と変わらなかった。
 人気がなく荒れた庭……この庭も、お巡りさんが調べたんだろうか?
 お母さんの話によると、自殺だと断定されるまでは―――近所での聞き込みとか、硝煙反応を調べ
るとか―――基本的な捜査はしたらしいから……何より、一応「悲鳴が聞こえた」っていう証言があ
ったわけだし。その悲鳴の原因を調べるのは当然だろう。誰かが侵入してきたのに驚いたのかもしれ
ないし、拳銃を突きつけられたからかもしれないし……けれど、結論から言えば、警察は重要視しな
かったらしい。家の中には、他に人がいた形跡はなかったし、硝煙反応は被害者の手から出た。悲鳴
を上げさせた“誰か”がいたとは思えず、悲鳴は気のせいか、この件には関係ない別の場所から聞こ
えたのだろう、と。
 納得はいかないけど、警察の理論では、それが一番筋の通る話なんだ。
 ……僕だって、ただお母さんからの話を聞いただけなら、それで納得できたかもしれない……けど、
見ちゃったんだから仕方ない。
 事件のあった前日、確かにこの屋敷には、被害者のおじいさん以外の人間がいたんだ。女の人と男
の人。当日じゃないから、関係ないかもしれないけど……僕には、どうしても無関係には思えない。
だって、ひとつの家で二日続けて人が死ぬなんて、偶然で済むだろうか?
 警察だって、同じ家で女の人の死体が見つかってたら、絶対にもっと詳しく調べたはずだよ。
 一人暮らしのおじいさんの家にいた二人は何者なのか。男の人はどこへ行ったのか。女の人の死体
はどこにあるのか。おじいさんの死は、本当に自殺なのか。
 壁の隙間から二人の姿を目撃した僕以外に、今はそれだけの疑問を並べられる人は誰もいない。死
体どころか、殺害の痕跡さえ見つからなければ、警察は動かないって聞いた。僕みたいな子供の言葉
で動いてくれるとも限らない。
 警察があっさり捜査を切り上げたってことは、僕が見た物置部屋は調べなかったってことだろうか?
 あれだけ血が流れたら、絶対痕跡は残ってると思うんだけど。血の跡って、そう簡単に落ちるのか
な。落ちないと思うけど……確証がない。だから、もう一度だけ同じ場所から覗いてみればいい。友
達を誘おうかとも思ったけど、血の跡の確認だけなら……きっと、大丈夫。
 ただ、気になることもある―――昨日、男の人がナイフを取り出す直前に気づいたことだ。
 壁を辿り、記憶の通りに窓の横に入ったヒビの穴を覗き込む。
 昨日と同じ光景が見える―――薄明かりの中、壁際に詰まれた木箱。そして、……?
 死体がないのはおかしくないと思う。やっぱり、あの後すぐにか遅くてもその日の内に、男の人が
運び出したんだろう。だけど―――血の跡も、ない?
 目を凝らしても、昨日の黒々とした液体が床に流れた影もない。
 ……なんでっ?
 男の人が全部拭き取ったんだろうか? そうとしか考えられないけど……何かがおかしい。そう、
昨日からおかしかった。あの二人―――なんで、あんな格好をしてたんだ?
 不思議だった。
 いつだったか、テレビドラマでは見たことあったけど、あるいは、歴史の教科書で―――女の人は
ドレスを着てた。スカートの裾が床に付きそうな……ウエストはキュッと締まって、スカートは僕が
すっぽり入ってしまいそうなくらい広がって。昔の貴族か何かが、パーティとか舞踏会とか……特別
な場所で、思いっきりのお洒落をしなきゃいけない、みたいな。
 男の人のは……そう、軍服ぽかった。先生がスライドで見せてくれて、友達と一緒にカッコイイな、
って。ビシッとしてて、腰に長い棒みたいのを差してて。
 どちらも、実物を見るのは初めてだった。
 あの日、この屋敷でパーティでもあったんだろうか? ……それだったら、お母さんたちの噂に上
ってもいいと思うんだけど。招待客とか、あんな格好の人たちが屋敷に入ってったら、目立たないは
ずがない。……なのに。
 ……あっ!
 信じられないモノを見た。
 ……ま、まさか。
 あの女の人だった。昨日殺されたと思った女の人が、また部屋に入ってきた。後から、男の人もつ
いてくる。……どうして?
 女の人のおなかを見ても、血の跡なんか一滴もない。昨日の刺される前と同じ―――すぐにでも、
パーティに出れるキレイな格好を……っ!
 同じだった。僕の目の前で、また同じ光景が繰り返される。
 部屋に入ってくるなり、女の人が男の人を引っ叩き……二人の雰囲気は険悪で……男の人が取り出
したナイフが光り、そのまま体当たりする。ナイフは、女の人のおなかから生えて、睨みつけたけど
為す術もなく倒れこむ。
 昨日見た光景とまったく同じだった。
 男の人が、壁に開く穴―――僕の方を見るのまで。
「……あ、あぁ」
 今度は動けなかった。
 覗き穴に顔をくっつけたまま、金縛りにあったみたいに動けなくて―――最後に見たのは、茫然と
する男の人の目の前でムクリと起き上がり、ニヤリと笑って明らかに僕を見た女の人の姿だった。



 もうどれだけの時間が過ぎたのだろう。
 今日も目の前で、女の人が殺される。
 ただ違うのは……僕も、屋敷の中にいることだった。
 何故こうなったのかはわからない。気付いたら、僕がこの殺人を―――殺人劇を見てるのは、壁を
挟んだ向こう側ではなくなっていた。女の人と目を合わせたあの瞬間から、僕も登場人物の一人にな
ってしまったらしい。
 物置部屋の中で、僕は一人木箱の影に身を潜める。ちょうど、壁の穴のあった真下あたりに。そこ
へ入ってくる女の人と男の人。途中までは、僕が外から見ていた通り。ただ……続きがあった。
 もう頭は働かない。
 僕はただ二人が物置部屋に入ってくるのを待ち、女の人が殺されるのを目撃する。その後―――驚
きで木箱を蹴り、見ていたことを男の人に気付かれる。逃げる間もなく捕まり、男の人は、腰に差し
ていた細身の剣で僕を…………痛みも繰り返される。何度も何度も。僕は泣くことも喚くことも出来
ず、ただ男の人を見上げる。最後の力を振り絞り、男の人の引きつった顔を。
 そして、男の人が殺される瞬間を。
 最後にその意味を考えたのはいつだったろうか。
 数えることさえ出来ずに、僕は同じ行動を繰り返す。
 真実は永久にわからない。それだけは確実。もしかしたら、これは夢なのかもしれない。永久に逃
れることの出来ない夢の世界に嵌まってしまったのかもしれない。
 見てはいけない世界を覗き込んでしまったから。



 刺された女の人は死んではいなかった。
 最期の力を振り絞り、執念で男の人の命を奪う。
 その頭に風穴を開けるべく、銃弾を打ち出して。
 この家の持ち主である老人が、銃で自殺したのと関係あるのだろうか?
 ……考えても答えを得られないことに、意味は無い。
 いつしか、諦めが僕を支配した。











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  04.02.17.


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